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楮山ひろ子‐原爆ドーム世界遺産化に隠された真実!伝えたい歴史

1996年原爆ドームが世界遺産に登録、その偉業の物語。そこには一人の少女の切実な思いが込められていた。

原爆ドーム.jpeg

楮山ひろ子‐原爆ドーム世界遺産化に隠された真実!伝えたい歴史

 

1996年原爆ドームが世界遺産に登録された。


全ては1つの日記、これが物語のはじまりであった。

 

大東亜戦争(太平洋戦争)
日本とアメリカによる全面戦争。


大東亜戦争末期、制空権と制海権を奪われた日本。アメリカ軍は日本本土を空襲した。本土空襲の始まりである。日本の主要都市の大部分は徹底した空襲の被害を受けた。


1945年8月6日、アメリカは一発の爆弾を投下。


投下された爆弾は、アメリカによる史上人類史上最悪の兵器原子爆弾であった。


広島市は壊滅、死者は20万人を超えた。


楮山ひろ子(かじやまひろこ)
8月6日アメリカの原子爆弾投下により、かじやまひろ子さんは一歳の時に被爆した。

原爆爆弾の恐ろしい所は、後になって病気が発症する事。その後、楮山ひろ子さんは原爆後遺症と戦いながら人生を歩んでいく。


しかし、15年後原爆後遺症により、16歳の若さでこの世を去った。


戦後
日本は戦後、奇跡の経済復興を遂げる。


戦中あれほどにくんだ鬼畜米兵であったが、いつしか、アメリカは日本のあこがれの国となった。戦争は忘れ去られ、アメリカ軍のひれつな戦争犯罪でさえ正当化する風潮も生まれた。


街は完全に復興され、戦争のおもかげなどなくなっていた。もはや戦後ではないと言う言葉も生まれた。


しかし、原爆ドームだけが戦争の面影、アメリカの戦争犯罪、原爆の脅威を残す遺物として残っていた。


原爆ドーム
広島県産業奨励館と呼ばれた建物は、原爆爆弾投下によって、骨組みの鉄筋部分と一部の壁のみの姿になってしまった。しかし、建物の一部が残った事は奇跡的な出来事であった。
 

いつしかその建物は原爆ドームと呼ばれるようになった。


原爆の脅威を伝えるその建物は崩壊の危機に直面していた。また、悲惨な被爆体験を思い出したくない市民の声もあり、取り壊しが検討された。


しかし、原爆の脅威を伝える原爆ドームの保全を主張する意見もあった。両者の意見は対立し、答えが出なかった。


決め手となったのが、原爆後遺症によって亡くなった1人の女子高校生の日記であった。


「あの痛々しい産業奨励館(原爆ドーム)だけが、いつまでも、恐るべき原爆を世に訴えてくれるのだろうか」


この日記を書いた高校生が、楮山ひろ子さんである。
 


原爆ドーム保全活動
楮山ひろ子さんの日記が保全運動のきっかけとなった。

 

広島折り鶴の会が中心となって原爆ドームの保全運動を展開する。


1966年、広島議会は原爆ドームの保存を決定する。


1996年には原爆ドームは世界遺産に登録された。


原爆ドームは世界に原爆の脅威や核のない世界平和を長きにわたって伝える存在になった。
 

全ては、アメリカによって命を奪われた女子高校生が書いた1つの日記がはじまりであった。


秘話   2017/09/08   work
タグ:世界遺産

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